タイトル:『俺の親友(♀)が距離感バグってて最高すぎる件について』
春。高校一年生という、人生において最も期待と不安が入り混じる季節。
教室の窓からは、絵に描いたような満開の桜が見え、春風が吹き込むたびに淡いピンク色の花びらがひらひらと舞い込んでくる。真新しい制服に身を包んだ生徒たちは、まだどこかよそよそしい空気を漂わせながらも、これから始まる高校生活に向けての友人作りに必死になっていた。
俺、相葉結弦(あいば ゆづる)もまた、そんなありふれた高校生の一人だ。特に目立つタイプでもなく、かといって暗いわけでもない。ただ平穏無事に、あわよくば気の合う男友達を数人作って、放課後にゲーセンやカラオケでバカ騒ぎできるような、そんなありふれた青春を望んでいた。
だが、そんな俺のささやかな願いは、隣の席に座る一つの「バグ」によって、入学早々に打ち砕かれることになる。
「あ、ごめん。ちょっと拾ってくれない?」
鈴を転がすような、という表現がぴったりな透き通った声。
声の主は、俺の隣の席に座る女子生徒、星宮凛(ほしみや りん)だった。
さらさらとした肩下までの黒髪、ぱっちりとした大きな瞳、そして桜色の唇。入学式の日からすでに「今年の1年にはとんでもない美少女がいる」と噂になっていたほどの容姿を持つ彼女が、俺に向かって気さくに声をかけてきたのだ。
彼女の指さす先には、俺の机の足元に転がった真新しい消しゴムがあった。
「お、おう。いいよ」
俺は少し緊張しながら消しゴムを拾い上げ、彼女の机の上に置いた。普通ならここで「ありがとう」「どういたしまして」で終わる、些細な日常の一コマだ。ラブコメならここから運命の恋が始まるのかもしれないが、俺はそんなおめでたい頭は持ち合わせていない。
「ありがとう、命の恩人。この御恩は一生忘れません。お礼に、私の右腕をあげる」
「いらねえよ! 逆に怖いだろ! どんなサイコパスな恩返しだよ!」
俺の口から、無意識のうちに鋭いツッコミが飛び出していた。
しまった、と思った。相手は初対面の、しかも学年でもトップクラスの美少女だ。こんな関西のノリみたいなツッコミを入れてしまって、引かれたらどうしよう。一瞬で冷や汗が背中を伝う。
しかし、星宮は引くどころか、目を丸くした後、ふふっと楽しげに笑い出した。
「あはは! いいね、その反射神経。素晴らしいツッコミだ。合格だよ、相葉くん」
「合格ってなんだよ。俺はいつお前のオーディションを受けたんだ」
「今さっき。私ね、高校に入ったら絶対に『最高の相棒』を見つけようと思ってたんだ。私のボケを余すことなく拾ってくれる、優秀なツッコミ役をね」
「お前、見た目によらず中身はおっさんか何かか?」
「失礼な。ピチピチの女子高生だよ。でも、お笑いを愛する心に性別は関係ないでしょ? というわけで、今日から私たちは親友だ。よろしく、相棒!」
星宮は満面の笑みで、バンッと俺の背中を叩いた。痛い。見た目からは想像もつかないくらい力強い。
普通、男女の出会いといえばもっとこう、甘酸っぱくて、お互いに顔を赤らめながら少しずつ距離を縮めていくものではないのか。なぜ俺たちは、出会って数分で「お笑いの相方」みたいなポジションに収まろうとしているのか。
「いや、ちょっと待て。なんで俺が勝手に相棒に任命されてるんだよ。俺は平穏な高校生活を送りたいんだ」
「平穏? バカ言っちゃいけないよ、相葉くん。人生は常に笑いという名のスパイスが必要なんだ。ほら、あそこで自己紹介の練習してる男子を見てみなよ。緊張しすぎて『好きな食べ物は……ハンバーグです!』って、小学生みたいなこと言ってるよ。あそこに的確なツッコミを入れるのが私たちの使命だ」
「使命感が謎すぎるだろ! 放っておいてやれよ、可哀想に!」
俺がそう返すと、星宮はさらに腹を抱えて笑い出した。彼女の笑い声は全く気取っておらず、豪快で、けれどどこか心地よかった。
周りのクラスメイトたちが、「あの美少女、もう男子とあんなに仲良く話してる……」と羨望と嫉妬の入り混じった視線を向けてきているのに気づいたが、俺の心境としては「いや、お前ら一回こいつと話してみろ。幻想がぶち壊れるから」としか言えなかった。
その後も、星宮の怒涛のボケは止まらなかった。
国語の教科書を開いては「この作者、絶対締め切り前に徹夜してハイになってるよね」と謎の考察を始め、数学の教師が入ってくれば「あの頭の輝き……間違いなく反射角を計算してワックスを塗ってるね」と囁いてくる。
その度に俺は、「そんなわけあるか!」「怒られるぞ!」と小声でツッコミを入れざるを得なかった。無視しようと思っても、彼女のボケがあまりにも斜め上すぎて、俺のツッコミの血が騒いでしまうのだ。
放課後になる頃には、俺はすっかり疲労困憊していた。
「ふぅ……初日から飛ばしすぎたな。でも、相葉くんのおかげで最高のスタートが切れたよ。ありがとう、相棒」
帰り支度をしながら、星宮が満足げに頷く。
「俺はお前のせいで寿命が縮んだ気がするよ……。まあ、でも……悪くはなかったけどな」
俺が少しだけ照れ隠しにそう言うと、星宮はパァッと顔を輝かせた。
「でしょ!? やっぱり私たちは最高の親友になれる運命だったんだよ! よし、この記念すべき出会いを祝して、駅前のクレープ屋に奢ってくれ!」
「なんで俺が奢る流れになってんだよ! お前が言い出したんならお前が奢れ!」
「ちぇっ、ケチ。じゃあ割り勘で手を打とう」
結局、俺たちはその日、駅前のクレープ屋でチョコバナナクレープを食べながら、日が暮れるまでくだらないテレビ番組の話で盛り上がった。
見た目は超絶美少女、中身はノリのいい悪友。
俺と星宮凛の「最高の友情」は、こうして春の教室で、一つの消しゴムと無茶苦茶なボケから始まったのだった。この時の俺は、この「親友」という言葉が、後々自分自身をどれほど苦しめ、そして狂わせていくことになるのか、まだ知る由もなかった。
高校二年の秋。俺と星宮が出会ってから、早くも一年半の月日が流れていた。
放課後のファミレス。窓際のボックス席。テーブルの上には、山盛りのフライドポテトと、ドリンクバーで適当に混ぜ合わせた謎の色の液体が入ったグラスが置かれている。
俺の向かいには、制服のネクタイを少し緩め、ポテトを一本つまんで口に放り込んでいる星宮凛が座っていた。
「でさー、今日の歴史の小テスト、マジで終わったわ。『ペリーが来航した理由を答えよ』って問題に、思わず『日本の美味しい寿司を食べるため』って書きそうになった」
「書かなくて正解だよ。お前の脳内どうなってんだよ。ペリーは幕末の日本にグルメ旅行に来たわけじゃねえんだぞ」
「だってさぁ、あんな強面のおじさんが『開国シテクダサーイ』とか言いながら、裏では『マグロ、オイシイデス』って言ってたら可愛くない?」
「可愛さで歴史を改ざんするな。テストの点数が可愛くなくなるぞ」
俺が呆れたようにツッコミを入れると、星宮は「あははは!」と声を上げて笑った。その笑顔は相変わらず周囲の客の視線を集めるほど魅力的だったが、俺にとってはもはや見慣れた「ただの悪友の笑い顔」でしかなかった。
一年半という時間は、俺たちの関係を強固なものにした。クラス替えでも奇跡的に同じクラスになり、席も近く、昼休みは一緒にお弁当を食べ(星宮が俺のおかずを強奪する)、放課後はこうしてファミレスやゲーセンに入り浸る。休日はオンラインゲームでボイスチャットを繋ぎながら徹夜でゾンビを撃ちまくる。
まさに「男同士の最高の友情」と呼ぶにふさわしい関係だった。相手が女であることを除けば、だが。
「おっ、お前らまたここに入り浸ってんのかよ」
不意に横から声をかけられ、顔を上げると、クラスメイトで俺の数少ない男友達の一人、健太が立っていた。部活帰りらしく、スポーツバッグを肩から下げている。
「おう、健太。お疲れ。お前もポテト食うか?」
「いや、俺はいいわ。それよりお前ら、相変わらず毎日一緒にいるな。お前ら絶対付き合ってるだろ。いい加減認めろよ」
健太のその言葉に、俺と星宮は顔を見合わせ、そして全く同時に、寸分の狂いもないユニゾンで声を上げた。
「「ないない!」」
あまりにも見事なハモリに、健太は呆れたようにため息をついた。
「ほら、そういう息の合い方がもう夫婦漫才なんだよ。クラスの女子たちも『あの二人、いつ結婚するのかな』って噂してるぞ」
「結婚!? 飛躍しすぎだろ!」と俺。
「ちょっと健太、眼科行った方がいいよ。私たちのどこにそんな甘酸っぱいピンク色の空気が流れてるって言うの? これは『戦友との軍議』だよ。いかにして明日の小テストを乗り切るかという高度な作戦会議中なんだから」と星宮。
「高度な作戦会議って、お前さっきペリーに寿司食わせようとしてただろ」
「あ、それ内緒って言ったじゃん! 健太に私の知能レベルがバレる!」
「もうとっくにバレてるわ」
俺と星宮のやり取りを見て、健太は「はいはい、ごちそうさま。俺は邪魔者なんで退散しますよ。末長くお幸せにな」と手をひらひらと振りながら去っていった。
「なんだよあいつ、適当なこと言い上がって」
俺はストローを咥えながら、少しだけ不満げに呟く。周囲から「付き合っている」と誤解されるのは、これが初めてではない。むしろ日常茶飯事だ。
その度に俺たちは全力で否定しているのだが、なぜか周りはニヤニヤするばかりで全く信じてくれないのだ。
「ほんとだよねー。私と結弦が付き合うとか、世界がひっくり返ってもありえないのにね」
星宮はケラケラと笑いながら、ドリンクバーのグラスに口をつける。
「だよな。俺だって、お前みたいなガサツでボケばっかりかましてる奴を彼女にしたいなんて微塵も思わねえよ」
「ちょっと、ガサツは余計でしょ! これでも私、黙ってれば学年一の美少女って言われてるんだからね!」
「『黙ってれば』な。お前の場合、口を開いた瞬間にそのブランドが崩壊するんだよ」
「むー。結弦のいじわる。減点ポイント1だね」
「なんだその謎のポイント制度」
「マイナス100になったら、罰ゲームとして結弦の奢りで高級焼き肉に連れて行ってもらいます」
「俺にメリットが一つもねえじゃねえか!」
俺が叫ぶと、星宮はまた楽しそうに笑い転げた。
こうして一緒にバカなことを言い合っている時間が、俺は好きだった。気を使わず、素の自分でいられる。変にカッコつける必要もなく、ただ思いついたことを口にして、笑い合う。
星宮凛という存在は、俺にとってかけがえのない「親友」だ。
彼女と一緒にいると、退屈な日常のすべてが面白おかしいネタに変換されていく。テレビのニュースも、道端の看板も、教師の些細な言い間違いも、すべてが俺たちの漫才の題材になる。
「あーあ、早く大人になりたいなー」
不意に、星宮が窓の外を眺めながら呟いた。夕暮れの街並みを、帰路を急ぐ人々の車が通り過ぎていく。
「なんだよ急に。大人になってどうするんだ?」
「んー? 大人になったらさ、結弦と一緒にお酒飲みながら、もっとくだらないことで朝まで笑い合いたいなって思って」
彼女は何の気なしにそう言ったのだろう。俺の目を見て、純粋な笑顔を向けてくる。
その瞬間、俺の胸の奥で、トクン、と小さな音が鳴った気がした。
将来も、俺と星宮がずっと一緒にいること。それが彼女の中でごく自然な前提として語られたことに、なぜか少しだけ嬉しさを感じてしまったのだ。
「……ばか、お前が酒飲んだらタチの悪い絡み酒になりそうで嫌だわ」
俺は誤魔化すようにそっぽを向き、グラスの氷をカラカラと鳴らした。
「えー! 私は絶対に可愛い酔っ払いになる自信があるよ! 『結弦くぅ〜ん、もっと飲もうよぉ〜』って甘える練習しとく?」
「やめろ、鳥肌が立つ。絶対にお前は『おい結弦! もっと酒持ってこい!』ってオヤジみたいになるに決まってる」
「ひどい! じゃあ大人になったら絶対証明してやるからね!」
そう言って笑う星宮の横顔を見つめながら、俺は心の中でそっと呟いた。
ああ、こいつとの「親友関係」は、きっと一生続くんだろうな、と。
この時の俺は、自分の中に芽生えつつある微かな感情の正体に、まだ気づかないふりをしていたのだ。

高校二年の夏休み。記録的な猛暑が日本列島を襲っていた。
外に出れば、アスファルトの照り返しで景色が歪み、けたたましい蝉の声が脳を揺らしてくる。こんな日に外出するのは、自らサウナの中に飛び込むようなものだ。
というわけで、俺、相葉結弦の部屋は、現在ある一人の人物によって完全に占拠されていた。
「あ〜、極楽極楽。結弦の部屋のエアコン、めっちゃ効きがいいね。うちのポンコツエアコンとは大違いだよ」
俺のベッドの上に大の字になり、涼しい顔でスマホをいじっているのは、もちろん星宮凛だ。
俺の両親は昨日から一週間の予定で夫婦水入らずの国内旅行に出かけており、家には俺一人しかいない。それを聞きつけた星宮は、「避暑地を発見した」という謎の理由をつけて、朝から俺の家に転がり込んできたのだ。
「お前なぁ……人のベッドで勝手にくつろぐなよ。だいたい、いくら親友とはいえ、年頃の男女が親のいない家で二人きりって、世間的にどうなんだよ」
俺は床に座り、扇風機の風を直接浴びながらぼやいた。
「えー? 世間なんて関係ないでしょ。私たちは性別を超越した魂の双子なんだから。それに結弦なら、私がここで無防備に寝てても絶対に手を出してこないっていう絶大な信頼があるし!」
「……その信頼、男としては少し複雑なんだけどな」
俺の呟きは、星宮の耳には届いていないようだった。
彼女の服装は、白の大きめなTシャツに、デニムのショートパンツという、夏休み全開のラフすぎる格好だ。ベッドの上でゴロゴロと寝返りを打つたびに、Tシャツの裾がめくれ上がり、健康的な白い太ももが惜しげもなく晒されている。
正直に言おう。目のやり場に困る。
いくら中身がオヤジのような親友だとはいえ、外見は学年トップクラスの美少女なのだ。そんな彼女が自分のベッドで無防備に転がっているという事実は、健康な男子高校生である俺の理性を密かに削り取っていた。
「ねえ結弦、暇だし映画見ようよ! ホラー映画! 夏といえばホラーでしょ!」
星宮は急に起き上がり、目を輝かせて提案してきた。
「ホラー? お前、この前お化け屋敷で腰抜かして、俺の背中に隠れて進んでたくせに」
「あれはリアルだったから! 映画は画面の向こうだから大丈夫! ほら、サブスクでこれ見よう! 『呪われた廃病院の惨劇』!」
「タイトルからしてB級の匂いしかしないんだが……まあ、いいか」
俺たちは部屋のカーテンを閉め、部屋を薄暗くしてから、テレビの画面に映画を映し出した。
星宮はベッドから降りてきて、俺の隣にちょこんと座った。その距離、わずか数十センチ。彼女の体温が伝わってくるほどの近さだ。
映画が始まると、不気味な音楽とともに、薄暗い廃病院の映像が流れ始めた。
最初は「へー、血糊がチープだねー」などと余裕ぶってツッコミを入れていた星宮だったが、物語が進むにつれて、徐々に口数が減っていった。
そして、主人公が暗い廊下を歩いている最中、突然画面の端から血まみれの幽霊がバーン!と飛び出してきた瞬間。
「きゃあああああっ!!」
鼓膜が破れるかと思うほどの悲鳴とともに、星宮が俺の腕にガシッと抱きついてきた。
「おわっ!? ちょ、お前、力強すぎ! 腕もげる! 腕もげるって!」
「む、無理無理無理! 怖い! なんであんな急に出てくるの!? 心臓に悪い!」
星宮は俺の腕に顔を埋め、ガタガタと震えている。
普段の強気な態度はどこへやら、完全に怯えきった小動物のようだ。
「だから言っただろ、ホラーは無理だって……って、おい、ちょっと離れろよ。暑いし」
俺がそう言って彼女を引き剥がそうとした時、ふと、至近距離から甘い香りが漂ってきた。
フローラル系の、少し爽やかなシャンプーの匂い。
腕に押し当てられている彼女の頬の柔らかさ。
そして、彼女の体が密着していることで伝わってくる、女性特有の柔らかな感触。
(っ……!?)
俺の心臓が、映画の恐怖演出とは全く違う理由で、ドクン、と大きく跳ねた。
顔が一気に熱くなるのを感じる。
ヤバい。これはヤバい。
俺は必死に冷静さを装おうとした。
「お、おい星宮。お前が選んだ映画だろ。ちゃんと前見て見ろよ」
「無理! 結弦、盾になって! 幽霊が画面から出てきたら結弦を身代わりに差し出すから!」
「親友をいけにえにするな! 最低かお前は!」
俺は声を張り上げてツッコミを入れることで、自分の中の動揺を誤魔化した。
その後も映画が終わるまで、星宮は事あるごとに俺の腕にしがみついたり、俺の背中に隠れたりしてきた。その度に俺の心臓はジェットコースターのように乱高下し、映画の内容など全く頭に入ってこなかった。
映画が終わり、エンドロールが流れ始めると、星宮はようやく俺から離れ、安堵のため息をついた。
「ふぅ……怖かったぁ。でも、結弦が隣にいたからなんとか最後まで見れたよ。サンキュー、命の盾」
「だから盾扱いすんな。……俺は映画よりお前の握力の方が怖かったよ。腕にアザできてないだろうな」
俺が腕を擦りながら文句を言うと、星宮は「ごめんごめん」と笑いながら、俺の腕をのぞき込んできた。
「どれどれ? あ、ほんとだ。ちょっと赤くなってる。ごめんね、痛かった?」
彼女の顔が、再び至近距離に近づく。
大きな瞳が俺を見上げ、長いまつ毛が瞬きをするたびに揺れる。
その瞬間、俺は息をするのすら忘れてしまうほど、彼女に見惚れてしまっていた。
「……ゆづる?」
俺が黙り込んでいるのを不思議に思ったのか、星宮が小首を傾げる。
「あ、いや! なんでもない! ちょっと冷たいもんでも飲もうぜ! 俺、ジュース持ってくるわ!」
俺は誤魔化すように立ち上がり、逃げるように部屋を出てキッチンに向かった。
冷蔵庫を開け、冷たい麦茶をグラスに注ぎながら、俺は深呼吸を繰り返した。
「落ち着け、俺。相手はあの星宮だぞ。ただの親友だ。ただの悪友だ。あいつにドキドキするとか、ありえないから」
必死に自分に言い聞かせる。
そうだ、これはただの生理現象だ。健康な男子高校生なら、美少女に密着されれば誰だってドキドキする。相手が星宮だからじゃない。ただのバグだ。
そう結論づけ、俺はグラスを二つ持って部屋に戻った。
部屋では、星宮が再びベッドの上でゴロゴロしながら、「あー、次はコメディ見ようよー!」と無邪気に笑っていた。
その笑顔を見て、俺は少しだけホッとすると同時に、胸の奥に小さな棘が刺さったような、チクリとした痛みを覚えたのだった。
高校二年の秋。文化祭を一週間後に控えた校内は、放課後になっても生徒たちの熱気で満ちていた。
どこからか聞こえてくる軽音楽部のバンドの音、演劇部の発声練習、そして段ボールやペンキを抱えて廊下を走り回る生徒たち。非日常の空気が、学校全体を包み込んでいる。
俺たちのクラスは「お化け屋敷」をやることになり、現在その準備の真っ最中だった。
「おーい、結弦! この血文字の看板、どこに置く?」
「あー、それは入り口のすぐ横に立てかけといて。あんまり目立ちすぎると逆に安っぽくなるから、少し斜めにしてな」
俺はクラスの実行委員として、指示出しに追われていた。
ふと気づくと、いつもなら俺の横で「この血糊、ケチャップの匂いしかしないんだけど! なめてみてもいい?」などとふざけているはずの星宮の姿が見当たらない。
「あれ? 星宮は?」
近くにいた女子に尋ねると、彼女は少し興奮した様子で答えた。
「あ、星宮さんなら、さっき3年のサッカー部の先輩に呼び出されて、中庭の方に行ったよ。なんか、すごく真剣な顔してたし、あれ絶対告白だよ!」
「……は?」
その瞬間、俺の思考がピタリと停止した。
3年のサッカー部の先輩。名前は知らないが、学内でもトップクラスのイケメンで、女子からの人気が非常に高いという噂は聞いたことがある。
そんなやつが、星宮を呼び出した? 告白?
「結弦くん、どうしたの? 怖い顔して」
女子の言葉にハッとして、俺は慌てて表情を取り繕った。
「あ、いや、なんでもない。ちょっと買い出しの確認してくるわ」
俺は作業を他の奴に任せ、足早に教室を出た。
向かう先は中庭。頭の中では「親友の晴れ舞台を見守ってやるか」などと言い訳を並べていたが、足取りは異様に重く、そして心臓の奥底で、ドス黒いモヤモヤとした感情が渦を巻き始めていた。
中庭につながる渡り廊下の陰からそっと覗き込むと、そこには夕焼けに照らされた星宮と、背の高い爽やかなイケメン先輩の姿があった。
二人は向かい合って立っている。先輩の表情は真剣そのもので、星宮はいつものふざけた態度はどこへやら、少し戸惑ったように俯き加減で話を聞いていた。
『星宮さん。前からずっと気になってました。俺と、付き合ってください』
風に乗って、先輩のストレートな告白の言葉が微かに聞こえてきた。
その瞬間、俺の胸の奥で、何かが「ギリッ」と音を立てて軋んだ。
なんだ、これ。
親友に彼氏ができるかもしれない。本来なら「おめでとう」「ついに春が来たな」と祝福してやるべき場面だ。俺と星宮は「最高の友情」で結ばれているのだから。
もし星宮に彼氏ができたら、今までのように放課後にファミレスでバカ話をしたり、休日に俺の部屋でホラー映画を見たりすることはなくなるだろう。
彼氏に気を使って、俺との距離を置くようになる。それは、男女の友情においては必然の結末だ。
それが、どうしようもなく……嫌だった。
星宮の隣で、アホみたいに笑い合える特等席を、ぽっと出のイケメン先輩なんかに奪われたくない。
俺の親友は、俺だけのものだ。
「……っ」
気づいた時には、俺の体は勝手に動いていた。
これがいかに空気を読まない、野暮な行動であるかは分かっている。でも、止められなかった。
「おーい! 星宮!!」
俺はわざとらしく大きな声を上げながら、二人の間に割って入るように中庭に足を踏み入れた。
先輩が驚いたように振り返り、星宮も目を丸くして俺を見た。
「あ、相葉くん……? どうしたの、こんなところで」
「どうしたじゃないだろ! お前、頼んでた買い出しのガムテープ、まだ買ってきてないだろ! 作業が止まっててみんな困ってんだよ!」
もちろん嘘だ。ガムテープはさっき健太が買ってきたばかりだ。
「え? あ、ご、ごめん! すぐ行く!」
星宮は俺の意図を察したのか、それとも本当に忘れていたと思ったのか、慌てた様子で先輩に向き直った。
「あの、先輩! すみません、クラスの準備があるので、私、行きます! さっきのお話は……ごめんなさい、私、今はそういうの考えられなくて!」
星宮は深く頭を下げると、俺の腕を掴んで「走るよ!」と引っ張った。
そのまま二人で校舎の中まで走り、人気のない階段の踊り場まで来て、ようやく立ち止まった。
「はぁ、はぁ……結弦、助かったよ。タイミング良すぎ」
星宮は息を切らしながら、壁に寄りかかって笑った。
「……邪魔してごめん。せっかくのイケメンからの告白だったのに」
俺はわざとぶっきらぼうな声で言った。心の中では、彼女が告白を断ったことに、信じられないほどの安堵感と喜びを感じていた。
「ううん、全然。正直、どうやって断ろうか迷ってたから。私、先輩のこと全然知らないし」
「そうかよ。……もったいねえな。付き合ってみたら意外と波長が合ったかもしれないぞ」
本心にもないことを言う俺に、星宮は少しだけジト目を向けた。
「あのねぇ、結弦。私にとって、一緒にいて一番波長が合うのは結弦だけだよ。結弦以外の人とあんなアホみたいな会話できるわけないじゃん」
「……俺はお前のボケの処理班かよ」
「そうだよ。だから、私が誰かと付き合うとしたら、結弦以上に私を笑わせてくれて、私のボケに完璧なツッコミを入れてくれる人じゃないと無理」
星宮はふふっと笑いながら、俺の顔を覗き込んできた。
「だから、当分は彼氏なんていらないかな。私には、最強の親友がいるからね」
その言葉に、俺は胸がギュッと締め付けられるのを感じた。
『最強の親友』。
今まで誇らしく思っていたその言葉が、今はなぜか、俺と彼女の間に引かれた越えられない境界線のように思えた。
俺がさっき感じたモヤモヤは、嫉妬だ。
親友が他の男に取られることへの嫉妬。いや、違う。
一人の「女」が、他の男のモノになることへの、強烈な独占欲。
「……お前、ほんとバカだな」
「えっ、なんで急にディスられたの!? 私、今めっちゃいいこと言ったよね!?」
「いいから、早く教室戻るぞ。ガムテープは嘘だけど、作業は残ってんだからな」
「あー! 嘘だったのか! 騙したなー!」
文句を言いながら俺の背中を追ってくる星宮の声を聞きながら、俺は自分の感情に一つの結論を下していた。
ああ、俺はこいつのことが好きなんだ。
親友としてではなく、一人の女性として。
文化祭の喧騒の中、俺の心に芽生えたその自覚は、もはや誤魔化しようのないほど大きく、確かなものになっていた。

高校二年の冬。12月24日。
街中が赤と緑のイルミネーションに彩られ、どこを歩いてもマライア・キャリーやワム!のクリスマスソングが耳に飛び込んでくる、そんな浮かれた一日。
俺は、駅前にある大きなクリスマスツリーの前で、寒さに身を縮めながら待ち合わせの相手を待っていた。
『クリスマスに暇な非リア同士、フライドチキンでもドカ食いして慰め合おうぜ』
数日前、俺から星宮に送ったメッセージだ。
文化祭での一件以来、俺は自分が星宮に恋愛感情を抱いていることをはっきりと自覚していた。しかし、だからといってすぐに告白できるわけもない。俺たちの関係は「最強の親友」という土台の上に成り立っている。もし俺がそのバランスを崩してしまえば、今までのような心地よい距離感は二度と戻ってこないかもしれない。
その恐怖が、俺の足をすくませていた。
だから今日も、あくまで「男友達との悪ふざけ」という体裁を装って、彼女を誘ったのだ。
「ごめーん! 待たせた!」
人混みの中から、聞き慣れた声が響いた。
振り返った俺は、そこから数秒間、完全に言葉を失うことになった。
「……誰だお前」
「失礼な! 渾身の勝負服だよ!」
そこに立っていたのは、いつもの制服姿やラフなパーカー姿の星宮凛ではなかった。
淡いベージュのチェスターコートに、白のタートルネックセーター。ボトムスは少し大人びたチェック柄のスカートで、黒のタイツが彼女の足のラインを綺麗に見せている。さらに、普段はサラサラのストレートヘアを毛先だけふんわりと巻き、唇にはほんのりとピンク色のリップが塗られていた。
控えめに言っても、街ゆく男たちが二度見するレベルの超絶美少女が、俺の目の前に立っていた。
「お前……チキン食うだけなのになんでそんな気合入ってんだよ。俺のダサいダウンジャケットが浮きまくってるじゃねえか」
俺は必死に動揺を隠し、いつものようにツッコミを入れた。
「えへへ、いいじゃんクリスマスなんだから。結弦ももっとオシャレしてくればよかったのにー。まあ、中身が残念だから服だけ着飾っても無駄か!」
「うるせえ! 減点5だ!」
「あはは! まだそのポイント制度生きてたの?」
いつもの軽口を叩き合いながら歩き出す。しかし、俺の心臓はさっきから早鐘を打ったままだ。
横を歩く星宮から、ふわりと香水のいい匂いがする。普段のシャンプーの匂いとは違う、少し大人っぽい甘い香り。
なんだよこれ。俺の理性を試してんのか?
俺たちは予約しておいたファミレス(クリスマスに高級ディナーを予約する勇気も金もなかった)に入り、山盛りのフライドチキンとピザを平らげた。
「ん〜! やっぱりクリスマスのチキンは最高だね! 結弦、口の周り油だらけだよ、子どもか!」
「お前もな。リップ塗ってんのに台無しじゃねえか」
「あ、ほんとだ。直さなきゃ」
食事を終えた後、俺たちは腹ごなしのために、街のイルミネーションを見歩くことにした。
ケヤキ並木に飾られた何万球ものLEDライトが、冬の夜空を黄金色に染め上げている。周囲は腕を組んだり、手を繋いだりしているカップルばかりだ。
その中を、俺と星宮は微妙な距離を開けて歩いていた。
「綺麗だねー。去年は家族でテレビ見てただけだったから、なんか新鮮」
星宮が、白い息を吐きながらツリーを見上げる。
「そうだな。まさかお前とこういう場所を歩くことになるとは思わなかったよ」
「えー? 結弦は私とクリスマス過ごせて光栄でしょ? 学年一の美少女を独り占めしてるんだから」
「はいはい、光栄の至りですよ。……まあ、悪くはないけどな」
俺がぼそっと呟くと、星宮は少し驚いたように目を丸くし、そして嬉しそうに微笑んだ。
「結弦が素直に褒めるなんて珍しいね。明日は雪が降るかも」
「もう降ってんだろ、バカ」
俺は空を指差した。いつの間にか、パラパラと粉雪が舞い始めていた。
「わあ、ホワイトクリスマスだ! ロマンチック〜!」
星宮は両手を広げて、雪を受け止めようとくるりと回った。
その時、彼女の足元が少し滑った。
「あっ」
「危ねえ!」
俺は反射的に手を伸ばし、星宮の腕を掴んで引き寄せた。
ドンッ、という軽い衝撃とともに、星宮の体が俺の胸の中に収まる。
「……っ、大丈夫か?」
「う、うん。ごめん、ヒール慣れてなくて……」
見上げられた彼女の顔は、俺の顔からほんの数センチのところにあった。
イルミネーションの光に照らされた彼女の瞳に、俺の顔が映っている。
普段はうるさいくらいに喋る彼女が、今は何も言わず、ただじっと俺を見つめていた。
周囲の雑踏の音が遠のき、世界に俺たち二人しかいないような、そんな錯覚に陥る。
(……キス、できるかも)
そんな考えが、ふと頭をよぎった。
今なら。この距離なら。
俺は無意識のうちに、彼女の顔に少しだけ近づき——。
「——って、何ドラマみたいな雰囲気出してんだよ俺たち! 気色悪い!」
俺はバッと星宮から離れ、自分の顔を両手で覆った。
「あはははは! ほんとだよ! 結弦の顔、めっちゃ真剣で超ウケる!」
星宮も腹を抱えて笑い出した。しかし、街灯の下で見た彼女の耳が、雪の寒さのせいだけではなく、真っ赤に染まっているのを俺は見逃さなかった。
「笑うな! 俺の純情を返せ!」
「純情って! 結弦にそんな機能搭載されてたの!?」
「搭載されてるわ! お前、マジでいつか痛い目見るからな!」
俺たちはそのまま、いつも通りの漫才を繰り広げながら駅へと向かった。
しかし、あの瞬間、俺の胸に抱いた彼女の体温と、見つめ合った時の甘い沈黙は、確実に俺たちの中に「何か」を残していた。
「親友」という分厚い殻に、決定的なヒビが入った夜だった。
俺はもう、自分の気持ちに嘘をつくことはできない。
この関係を変える時が、すぐそこまで来ていることを、俺は確信していた。

高校三年の春。卒業式を明日に控えた日の放課後。
3月特有の、暖かさと冷たさが入り混じる風が吹く中、俺は学校の屋上に立っていた。
フェンス越しに見下ろすグラウンドでは、後輩たちが部活動に励んでいる。明日でこの景色ともお別れかと思うと、少しだけ感傷的な気分になった。
『放課後、屋上に来て。大事な話がある』
昼休みに星宮から送られてきた短いメッセージ。
普段の「ゲーセン行こ!」や「今日のアニメ見た!?」といったテンションとは明らかに違う、真面目な文面に、俺の心臓は朝からずっと落ち着かないままだった。
屋上のドアがギィッと音を立てて開き、星宮が姿を現した。
「……待たせてごめん」
彼女はいつもの元気な笑顔ではなく、どこか緊張した面持ちで俺の隣まで歩いてきた。
「おう。大事な話ってなんだよ。まさか俺に借金の保証人になれとか言わないよな?」
俺はあえて、いつものようにふざけたトーンで話しかけた。空気を和ませたかったのだ。
しかし、星宮は笑わなかった。
「結弦。私さ……」
彼女はフェンスを両手で強く握りしめ、前を向いたままポツリと口を開いた。
「結弦の親友、やめようと思う」
その言葉が耳に届いた瞬間、俺の全身の血の気が引くのを感じた。
親友をやめる。
それはつまり、絶交ということか。明日卒業して、それぞれの大学に進学するこのタイミングで、俺たちの関係をリセットするという意味なのか。
「……は? なんだよ急に。俺、なんかお前を怒らせるようなことしたか? この前のテストで俺の方が点数高かったからって根に持ってんのか?」
声が震えないように必死に保ちながら、俺はボケを重ねた。
星宮はゆっくりとこちらに顔を向けた。
その瞳は少し潤んでいて、怒っているわけではないことが分かった。
「違うよ、バカ。……結弦が私のボケに突っ込んでくれなくなるのが、嫌になったの」
「だから、意味が分かんねえよ。俺はずっとお前のボケに突っ込んできたろ」
「そういう意味じゃない。……私、もう結弦の隣で、ただの『お笑いの相方』でいるのが辛くなったんだよ」
星宮の言葉が、春の風に乗って俺の胸に突き刺さる。
「結弦が他の女子と仲良く話してるのを見ると、胸がチクチクする。結弦が私のことを『ただの悪友』って言うたびに、悲しくなる。……私、結弦のこと、好きになっちゃったんだよ」
彼女の告白は、あまりにも直球で、一切のボケもツッコミも挟む余地のない、純度100%の本音だった。
「……だから、親友はやめる。私を、結弦の彼女にしてほしいって言ってんの」
顔を真っ赤にして、それでも俺の目から視線を逸らさずに言い切った星宮。
その姿を見て、俺の心の中にあった不安や焦りは、一瞬にして吹き飛んだ。
代わりに押し寄せてきたのは、抑えきれないほどの歓喜と、そして彼女に対する愛おしさだった。
なんだよ。俺と同じじゃないか。
お互いに「親友」という言葉を盾にして、自分の気持ちに蓋をして、でも本当はずっと前から、お互いのことを特別に想っていたんだ。
俺は大きく息を吐き出し、そして、呆れたように頭を掻いた。
「……お前なぁ。そういう大事なことは、男の俺から言わせろよ」
「えっ……?」
「奇遇だな。俺も、ただの親友じゃもう満足できねえと思ってたところだ。お前が他の男に告白されてるの見た時、嫉妬で狂いそうになったし、クリスマスにお前がめかし込んで来た時、可愛すぎて心臓止まるかと思った」
俺の言葉を聞いて、星宮の瞳がみるみるうちに大きく見開かれていく。
「それって……」
「ああ。俺も、お前のことが好きだ。ボケマシーンで、ガサツで、距離感バグってるお前が、世界で一番好きだ。……だから、俺の彼女になってくれ」
静寂が降りた。
星宮はポカンと口を開けたまま、俺の顔をまじまじと見つめている。
そして数秒後。
「……ぶっ、あはははは!!」
彼女は突然、お腹を抱えて大爆笑し始めた。
「な、なんだよ! 人がせっかく真面目に告白してんのに!」
「だって、あはは! 結弦の告白、めっちゃカッコつけてるのに、言葉のチョイスがひどい! ボケマシーンって何! ムードぶち壊しじゃん!」
「お前が先に言ったんだろうが! こっちは必死に合わせてやったんだよ!」
俺が顔を真っ赤にして怒鳴ると、星宮は笑い涙を拭いながら、俺の胸に飛び込んできた。
「……ありがとう、結弦。私、世界で一番幸せなボケマシーンだよ」
俺の胸に顔を埋め、くぐもった声で呟く彼女の腕が、俺の背中に回される。
その温もりを感じながら、俺もそっと彼女の背中に腕を回した。
「……お前、泣いてんのか?」
「泣いてない。花粉症がひどいだけ」
「強がるなよ。鼻水俺の制服になすりつけんなよ」
「なすりつけてやるー。べちゃー」
「やめろ汚え!!」
屋上には、いつものような俺たちの漫才が響き渡っていた。
しかし、その声はこれまでとは違い、確かな愛情と、お互いへの愛おしさに満ちていた。
「親友」という関係の終わりは、俺たちにとって、これ以上ない最高のハッピーエンドの始まりだった。
こうして俺たちは、三年間の高校生活の最後に、ついに「ただの親友」を卒業したのだった。
大学生になった春。
俺と星宮は、同じ大学に進学することはできなかったが、お互いのキャンパスの中間地点にある駅を待ち合わせ場所にして、頻繁に会う日々を送っていた。
今日のデート(この言葉を使うのにもようやく慣れてきた)の目的地は、少し遠出をして海沿いにあるアウトレットモールだ。
「ちょっと結弦、歩くの早い! 彼女に対する配慮が足りない! 減点5!」
「お前が今日に限って履き慣れないヒールなんか履いてくるからだろ! だいたいなんだよその減点制度、まだ生きてたのかよ!」
「生きてるよ! マイナス100になったら、罰として私のほっぺにキスしてもらうからね!」
「それお前にとって何の罰なんだよ! 俺へのご褒美じゃねえか!」
「……あっ、自分で言っちゃった。結弦、私のほっぺにキスするのご褒美だと思ってるんだ〜。えへへ、可愛いところあるじゃん」
星宮がニヤニヤと悪戯っぽい笑みを浮かべて俺の顔を覗き込んでくる。
「っ……! しまった、誘導尋問かよ! お前マジで性格悪いな!」
俺は真っ赤になった顔を背けながら、彼女の頭を軽く小突いた。
周りの通行人たちが、俺たちのやり取りを見て微笑ましそうに笑っているのが分かる。
傍から見れば、ただの仲の良いバカップルにしか見えないだろう。
しかし、俺たちの中身は高校時代から何一つ変わっていない。相変わらずボケとツッコミの応酬で、ロマンチックなムードなんて5分と持たない。
「あーあ、結弦が優しくエスコートしてくれないから、足が痛くなってきた。おんぶして」
星宮が立ち止まり、両手を広げてくる。
「バカ言え。こんな人混みでおんぶなんかできるか。恥ずかしいだろ」
「じゃあ、手繋ぐのは? これなら恥ずかしくないでしょ?」
彼女はそう言って、俺の右手に自分の左手を重ね、ギュッと指を絡めてきた。
いわゆる、恋人繋ぎというやつだ。
高校時代、「親友」だった頃には、肩を組んだり背中を叩き合ったりすることは日常茶飯事だったが、こうして手と手を繋ぐことは一度もなかった。
小さくて、柔らかくて、少しだけ冷たい彼女の手。
その感触が、俺たちが今「恋人同士」であることを強く実感させてくれる。
「……手汗かいたらごめんな」
俺が照れ隠しにそう言うと、星宮は繋いだ手を嬉しそうにブンブンと振った。
「全然気にしない! むしろ結弦の手汗なら、瓶に詰めて保存したいくらい!」
「サイコパスかお前は! 気持ち悪いこと言うな!」
俺のツッコミに、星宮は「あははは!」と声を上げて笑った。
その笑顔は、俺が高校一年の春に初めて見た、あの桜の教室での笑顔と全く同じだった。
でも、その笑顔を向けられている今の俺の立ち位置は、あの頃とは違う。
「ただの親友」ではなく、「彼氏」という特等席だ。
海沿いのアウトレットモールに着くと、俺たちはクレープを食べたり、服を見たりしながら、一日中歩き回った。
夕暮れ時。オレンジ色に染まる海をバックに、ベンチに並んで座る。
波の音が心地よく響き、海風が星宮の黒髪を揺らしている。
「……結弦」
不意に、星宮が少し真面目なトーンで俺の名前を呼んだ。
「ん? どうした?」
「私さ、結弦と付き合えて、本当に良かったって思ってる」
「なんだよ急に。気持ち悪いな」
「照れ隠しで暴言吐くのやめなさい。……あのね、私、結弦と親友じゃなくなるのが、本当はすごく怖かったんだ」
星宮は繋いだ手を自分の膝の上に置き、愛おしそうに見つめながら言葉を紡いだ。
「親友のままなら、絶対に別れることはないでしょ。でも、恋人になったら、いつか別れが来るかもしれない。それが怖くて、ずっと気持ちを隠してたの。でも……」
彼女は顔を上げ、俺の目を真っ直ぐに見つめた。
「今は、全然怖くない。だって私たち、恋人になっても、中身はあの頃の『最強の親友』のままだもん。この関係が壊れることなんて、絶対にないって確信してるから」
その言葉に、俺の胸の奥が熱くなった。
俺も、全く同じことを思っていたからだ。
恋愛感情という不確かなもので結ばれているだけじゃない。俺たちの根底には、何があっても笑い合える、あの絶対的な「友情」という土台がある。
だから俺たちは、どんな壁にぶつかっても、きっと漫才みたいなノリで乗り越えていける。
「……そうだな。俺たちは、世界で一番気が合う親友で、世界で一番ラブラブな恋人だからな」
俺が珍しく素直にそう言うと、星宮はパァッと顔を輝かせた。
「おおー! 結弦がデレた! 珍しい! 記念に録音しとけばよかった!」
「うるせえ! 二度と言わねえからな!」
「えー、もっと言ってよー。あ、そうだ。今のデレ発言で、結弦のポイント、マイナス100達成です!」
「なんでデレて減点されんだよ! お前の評価基準どうなってんだ!」
「というわけで、罰ゲームの執行です」
星宮は俺のツッコミを無視して、スッと顔を近づけてきた。
そして、チュッ、と。
一瞬だけ、俺の頬に柔らかい唇が触れた。
「……っ!」
俺が言葉を失って固まっていると、星宮は顔を真っ赤にしながら、いたずらっぽく笑った。
「はい、罰ゲーム終わり。……でも、これじゃ私が罰ゲーム受けてるみたいで割に合わないから、次は結弦の番ね」
「……お前なぁ。そういうのは、男からさせろっていつも言ってるだろ」
俺は繋いでいた手を引き寄せ、今度は俺の方から、彼女の唇にそっとキスを落とした。
波の音と、二人の重なる影。
ボケとツッコミばかりの俺たちの日常に、ほんの少しの甘いスパイス。
これからも俺たちは、こうして笑い合い、ふざけ合い、そして愛し合っていくのだろう。
距離感がバグったままの親友は、いつしか「最強の恋人」へと進化を遂げた。
俺たちの最高に楽しくて、最高に幸せな日々は、まだ始まったばかりだ。
【完】